人生は安酒とともに
笑いながら呑み、泣きながら呑み、ため息と嗚咽を酒に溶かしたもの以外に人生の味が語れようか。
『人生はプラスマイナス0だっていうやつは、決まってプラスのやつなんだ』
なんて球磨川先輩は本当にいいことを言う。
今日はとあるリユースショップでガラスケースに並ぶ、それはそれは高そうな酒が一堂に会する様を見てそう思った。
あんな高い酒を、気高い酒を、おそらく私は一生手にすることがない。
たとえそれが不要品として一度売られたものであっても。
たとえ私が一時的に持ち金が増えたとしても。
私が選ぶのは、いつだって大量に陳列された最安値の酒だ。
もとより酒を酔うための、見たくない現実の解像度を下げるための道具として扱い、高い酒を美味しそうに飲む人ななりきる為のコスプレ用品としているのだがら、当たり前のことかもしれない。
そこで思った。人生の生き方と酒の選び方は似ているのかもしれないと。
ウェーイ!とか言ってそうな人は炭酸の入った、いかにもテンションのあがりそうなものを選ぶし、人生を楽しむ努力をかかさない人はお酒もやはり美味しそうな、たまには珍酒を選んだりするし、そのすべての逆は、安酒なのだ。コスパの良さ。度数の高さ。それしか見ない。
いかに道具として優秀か。それしか、それでしか物事を図れないのだ。
なんと空虚な事だろう。なんて寂しいことだろう。
でもその虚しさこそが、今の私の求める酒の味なんだ。
そう思うとパッケージにでかでかと「おいしい」とかかれた、悪酔いする酒もなんだか愛おしく思えてくるものである。
ペルソナの設定とは。
ブログを始めたばかりの初心者としての通過儀礼。
「何を書いたらいいのかわからない」状態に今ある。
ありのままのこの悩みをGoogle先生に打ち明けたところ「何を書くかは誰に向けて記事を書くかを決める事、つまりペルソナの設定をする所がスタートだよ」
という旨を教えてもらった。
誰に向けて発信するのか。しかしこの設定ほど難しいことがあろうか。
誰に向けて言葉を書きたいかと言われても、そんな願望など私にはありはしないからだ。
しかも、よしんばそれが決まったとしても、その人たちに有益な情報となるとまた難儀だ。
情報の消費者が生産者になるのは、とても難しい。
だれかが作ったコンテンツをむしゃむしゃ食べているだけでは、ぜい肉にはなっても身にはならないという事なのかもしれない。
アウトプットできてこそのインプットとはよく言ったものだ。
全くその通り。多くのコンテンツを喰らって来てなお、3日やそこらでアウトプットに困るのだ。
情けないことこの上ない。
だが、もしもこの通過儀礼を乗り越える事が出来たら、少なくとも今の私のような人の助けになるだろう。
それを励みにもう少し、もがいてみようと思う。
ズボラで飽き性の私がオススメする、習慣化の方法5選
とかく習慣を作るのは難しい。これは何も私に限ったことではないのは、書店にあふれる【誰でもいい習慣を作れる本】の数を見ればわかるだろう。
みんないい習慣が維持できず困っているのだ。
今日はそんな数ある本や動画に救いを求め続けたズボラの私が備忘録がてら、やってみてオススメと思えた情報5つをまとめてみようと思う。
1.やるタイミングを決める
走り出す前の準備と言える。自分にとって一番出来そうなタイミングを探しだし、そこにやることとしてスケジュールに組み込んでしまう。
「空いた時間にやろう」「出来そうなときにやろう」
最初の数日はそれで十分だが、一週間後くらいには「空いた時間」も「出来そうなとき」も永遠に来なくなる。完全な音信不通だ。
しかしやるタイミングを決めておけば、自分の意志とは関係ない。
しかし、「朝の6時」にやるだとか【やる時間】を定めるのは絶対にお勧めしない。
6時を過ぎた時点で完全にやる気を無くすし、何よりズボラの本能がなんやかんやと6時を過ぎるよう前後の予定を調整するからだ。
「今日はちょっと間に合わなかったから、明日からやろう」
となるし、その明日はやはり永遠に来ない。
だからこそ時間ではなくタイミングで決めてほしい。
「朝、歯磨きが終わったら」とか「電車に乗ったら」とかだ。
私はなんかしら嫌なことはYouTubeを見ているタイミングでと決めている。効率は下がるがストレス解消を並行して行える。
時間で定めるより、ずっとやりやすくなるからタイミングで組み込むのは本当にオススメだ。
2.TODOリストを書く
これはやっていない人がいたら、前日の夜か当日の朝に是非とも書いてみてほしい。
ただ文字に起こすだけなのだが、紙に書くだけでサボった時なんかモヤッとするのである。
「今日はやっぱやめとこうかな」なんて思っているのが居心地悪く感じるようになる。
加えて、やる気はあるが「普通にうっかり忘れていた」なんて事態も防げる。
いらない紙に走り書きでまったく問題ない。書いたらそれを机の上に【出しっぱなし】にするだけだ。
逆に律儀に手帳の中にしまったりすると、見なくなってしまう恐れが大いにあるのでオススメしない。
出しっぱなしが最強だ。
3.スタートの用意をしておく
これは習慣化したい行動に必要なものをあらかじめ用意しておこうという事である。
筋トレなら
【道具をすぐ手に取れる場所に置いておく】
【筋トレする空間を開けておく】
などである。我々のやる気は大変かよわい。準備に時間がかかると、その労力を思い浮かべただけで一気に「やっぱ今日はやめとこう」となるのだ。
そんな事態を防ぐために、あらかじめ道具をそばに置き、筋トレスペースだけは物を置かず死守することが重要になる。
なんならもうヨガマットは引いたままでいいじゃない。明日も使うから。
4.とりあえず21日(三週間)を目指す
人が習慣を定着させるには約3週間かかるそうだ。
生物にはホメオスタシス(恒常性)というものがあり、変化を嫌う習性がある。本能レベルで新しい習慣を拒んでくるのである。
変化を嫌う習性を敵から味方にするには【新しい習慣を日常にする】しかない。
習慣をやめる事が変化と判断されるまで続けられれば此方の勝ちなのだ
つまり21日間だけは頑張ろう。それ以降はぐっと楽になるはずだ。
5.OKの基準を限界まで下げる
これは前述の21日ルールにつながるが、目下我々の目標は続けること。
21日間の目標は21日間続けることなのだ。
だから腹筋は1回、読書は1ページ。それでOKとする覚悟が必要だ。
長時間勉強するために有効な方法としてポモドーロテクニックというものがある。
これは例えば【45分で一区切りとし、時間が来たらどれだけ中途半端な状態でも休憩を挟まなければいけない】という勉強法である。
あえてキリが悪い状態で手を止めさせる事で、自然と「もっとやりたい」という思いがわき、自然と次の45分も集中し意欲的に取り組める仕組みになっている。
習慣のOK基準を限りなく低く定めることで、やる気のある日はもっとやりたくなるし、逆になかったら1回ないし1ページだけ取り組んだらいいと思うと気が楽になる。
習慣作りに必要なのは、いかに21日間続けるかだ。
この21日間に「3kg痩せよう」だとか「知識レベルを上げよう」などという願望をもってはいけない。
やる気をそぎ、習慣を諦める理由作りになるだけだからだ。
あくまで結果を求めるのは習慣が体に根付いてからにしよう。
終わりに
以上、怠惰の化身の私が試して効果のあった習慣作りの方法5選だ。
21日。ズボラを極めし我々にとっては大変な時間ではあるが「何かやりたい」「変わりたい」そんなあなたの役に少しでも立てたら幸いだ。
出来そうな項目からでも、ぜひやってみて欲しい。
健闘を祈っている。
気分変調症と私と死にたい私
皆様は気分変調症という精神疾患をご存じだろうか。
鬱の一種で、簡単に言えば鬱程症状は重くないが、慢性的に抑うつやイライラ、焦燥感、意欲や集中力の低下が起こる疾患だ。
これは「性格の問題」と長らく誤解されるくらい長期に続く。
し、私などは「あなたのは多分一生治らない」など主治医に言われる始末だ。
「あなたは家庭環境に問題があった」と主治医は指摘するが、それに加え、小学校に入る以前から高校を卒業するまで、私の人生には虐めと嫌がらせがあった。
極めつけは、高校卒業後に入社した職場でだった。
そこは病院に付属した介護課で、配属された場所で「よろしくお願いいたします」と頭を下げた直後行われたのは、誰が私の面倒を見るかの押し付け合いだった。
結局、そのなかで一番勤務経験が浅いと思われる先輩が【私】を担当することになり、私の一番最初の業務は「私の面倒を見るのがいかに嫌か」といった内容の話を聞くことだった。
更に決定的だったのは、その先輩が【志望したにも関わらず不合格だった高校】に私が通っていた事実が判明したことだった。
なにか発言するたびに「頭いい人がいうことわかんなーい」と取り合ってもらえないことが増え、もちろん業務にも滞りが出来てきた。
そのたびに他の先輩から叱責され、時には狭い個室に連れ込まれ叱られた、どんどん、どんどん際限なく私は嫌われていった。
介護作業を行うにあたり、暴れて介護士に暴力をふるう利用者さんには二人体制であたり、片方が手などを抑えている間にもう一方がおむつ交換を行うやり方を取っていた。
その日も、そうして作業に当たるはずだった。
そのはずだったのに。
先輩はただ見ているだけだった。
私は暴れる利用者に殴られながら、一人でおむつ替えを行っていた。
ただでさえ慣れていない作業をボコボコ殴られながら、たどたどしく行う様はおかしかったのだろう。
先輩は笑っていた。
「いまこの利用者を殺したら、すべてから解放されるだろうか?」
それは素晴らしい閃きのように思えた。たったそれだけで何もかも終わる。明日から何か行動する度に部署内すべてのひとに囲まれ叱責される不安もなくなる。もう殴られなくなる。もう馬鹿にされることもなくなる。
相手は介護を要するほどの老人なのだ。簡単な事だ。
恐ろしい考えだった。本気の殺意というのあのように冷ややかな熱さを持った思考をいうのだろうか。
「人の役に立てる仕事がしたい」「ひとにやさしく接することが出来る仕事」そんな風に思って、介護業を志望したのに。
何とかおむつ交換を形だけ行って、自分の殺意を思い返したとき、今すぐやめなければいけないと思った。
いつか僅かに残った理性が潰える前に。
結局仕事をやめ、そのフロアを出るまで方々に嫌味という嫌味を言われたが、私の部署の人間は一様にうれしそうだった。
それから鬱という診断が気分変調症に代わるまでの記憶は曖昧だ。
何度か自殺を試みたり、社会に復帰しなければとアルバイトをしては発作により退職したりと、世界に対して不義理を行ったことだけは覚えている。
病名が鬱を抜けて気分変調症に変わった今でも、全く動けない日も、焦燥感や不安感で死にたくなる日もある。
結局私はこれからも「死にたい私」と付き合っていくしかないのだろう。
正直当初書こうと思っていたこととまたずれた。
軌道修正も難しい。
でも修正する気が起きないのは、これが今まで親にすら語れなかった私の秘密だからだ。
ずっと誰かに聞いてほしかった、知ってほしかったことだからだ。
私の人生における最大の失敗で、最大の恥。
もしもここまで読んでくれた誰かがいるのなら、感謝しかない。それは私がずっと欲しかった聞いてくれる人に他ならない。
本当にありがとう。
SEO記事を書こうと思っていた。
そう、SEO記事を学び、その練習台としてブログのアカウントを立ち上げたはずなのだ。確かにそうだった。
なのに何故いま私はこんな毒にも薬にもならない戯言を書き込んでいるのだろう。
SEO記事の大前提。基本の基。
「誰に向けた文章か」が明白である事。
もう前提から真逆の方向であるといえる。
いや、難しかったんだ。理想が高いのもあるかもしれない。
●●の秘密を徹底解明!なんてタイトルで大言壮語を掲げながら、結局
「よくわかりませんでした!今後の情報に期待!いかがでしたか?」
なんて記事になりたくはない。
しかし読者に満足を捧げられる記事が書ける知識が在るかといえば、無いのだ。
自己紹介が苦手なのも、とどのつまり【誇れるものが無い】ことに行き着くのかもしれない。
でもどうだろう?私のような人は多いのではないだろうか?
何かをしたいのに、全く出来る気がしない。
それでも何か挑戦しようと思い立った。
「出来ない人」に向けたブログというのも素敵かもしれない。
ライティングを教えるのではなく、一緒に学んでくれる人が現れたら、きっと楽しい。
そして、此処までで500文字にも満たない。
一般的な記事の4分の1にも届かないのだ。ライターというのはすごい人達なんだなあ。なんて小学生のような感想しか持てないくらいの差があることに愕然とする。
まずは知識うんぬんより、読みやすく長文を書くスキルが先なのかもしれない。
自己紹介が苦手だ。
昔から自己紹介が苦手だ。
それこそ小さな頃から幾度となく繰り返しやっているとは思えないほどに。
自己に特筆して紹介する点など持っている方が少数だと思うのだが、多くの人は何故かホイホイこの作業をやってのける。
求められる前に適当な言葉を用意しておくべきなのはわかるのだが、それでも「自己紹介してください」と言われる度に、
(一体、私の何を語れというのか)という反抗的な私が顔をチラつかせる。
そもそも自己紹介って言葉自体ざっくりし過ぎではないか?
もっと具体的に知りたいことを聞いてほしい。
などと文句をつけても、結局語ることがない自己については解決しないのだけれど。
このブログの初投稿だって、なんかもっと明るくてキャッチ―で、見てくれる人がワッと増えるような自己紹介文にするつもりだったのに、このありさまだ。
誰か自己紹介のコツを知っていたら教えてほしい。