禁煙ではなく卒煙

私は歴6年のプロスモーカーである。

いや、であった。というのもついさっき、今さっき禁煙ならぬ卒煙を試み始めたのだ。

 

いままで幾度も禁煙ガムを噛み、電子タバコを充電し、禁煙パッチを貼りまくり『禁煙セラピー(アレン・カー著)』をボロボロになるまで読み込み、何度か惜しいところまで漕ぎつけたりもしながら、結果的にタバコを燃やし続けた。

 

なぜだろうと考えた時、私は別に禁煙などしたいとは思っていないという結論に行き着くのだ。

確かに燃やす分のお金は惜しい。お金が節約できるのはいいことだ。

だが、おおむね全ての禁煙グッズの主たる主張は

「辞めたら健康になれるよ!このままじゃ早死にしちゃう!」

なのだ。

私は不健康になりたい。どちらかというと一刻も早く問答無用で死にたいのだ。

だからこそ禁煙グッズの多くにみられる「長生きしたいだろ?」という勇気付けの言葉にげんなりするのだ。

 

では何故私は何度も失敗しながらタバコを断とうとするのか。

そこが明確でないから失敗するのではないかと思い立った。

だからこうしてツラツラ未練がましいことを書いているのだ。

 

第一にタバコを吸える場所が減った事。コンビニ前か自宅でしか吸えないとなると、割と日常が禁断症状との戦いになる。

これがだるい。

第二に今私は金欠で、値上がりの一途をたどるタバコ代金が本格的に厳しくなってきた。身もふたもない。

第三に、私の憧れる人が概ねタバコを吸わないという事だ。

 

昔の私の憧れた人はほぼほぼタバコを吸っていた。だから私もタバコを吸う事でその人たちに近づける気がした。

まあ、その人たちは概ね死んだ。みんな自死だった。

だからもう喫煙者の憧れの人はいない。だからもう、吸う理由がないのだ。

無くなってしまった。

 

この結論を出せなかったから、出すのが嫌だったから、私はタバコを吸っていたのかもしれない。

 

あとは数ある禁煙グッズが言うように、大したことのないニコチンの離脱症状を乗り越えれば、こんどこそ禁煙ならぬ卒煙ができるかもしれない。

 

辛いときに必ず傍にあった安酒とタバコの酷い味こそ、私の人生の味だと思うから、断つのはやっぱり難しいのかもしれないけれど、

もう吸う必要はない。その現実を、いい加減ちゃんと見ないといけないのかもしれない。