愛されないなら愛されないまま生きるしかないらしい。

生きるしかないらしい。

死ねない限り命は続いていく。

友人がいなくても、恋人がいなくても、みじめでも、意味なんかなくても、頑張る理由がなくても、あの頃死ねなかった理由がわからないままでも。死ねたアイツラが羨ましいままでも。

生きるってなんだ。

生命活動を続けることか。

どうやらそれをやるには金がいるらしい。働かなきゃいけないらしい。

働くってなんだ。人生の大半を注ぎ込まなきゃいけないそれに、どんな価値を見い出せばいい?

どういう理由があれば私は納得できる?

自分がどうありたいのかもわからない。

どうしてやれば私は幸せになる?どうなってやれば私は自分の人生に納得がいくんだ?

あても検討もつかないままはしるのはしんどい。歩くのですら。

私は何しにここまで来たんだった?

わからない。なにも。

金は欲しい。即物的で俗物的な欲は確かにある。

でもそれじゃないはずだ。

それ以外に欲しい物があるはずなんだ。それさえ知れたら他の知識など何も要らない。

現実にはない気もしてきた。

だから見つからないんじゃないか?

ならどこにある。

羨ましいのは誰だ。

妬ましいのはどいつだ。

そこに答えはあるだろうか。

必要とされたい。

ただそれだけなんじゃないか。

読書したら久しぶりに死にたくなった話

死にたくなった。久しぶりに。

 

このブログの更新が途絶えていた。それは鬱がひどくなり七転八倒し、それでもなんとか立て直し、ぐずぐずになりながらも生きながらえてるうちに症状が快方に向かい、なんとか毎日へらへら笑える日々を過ごしている間に、このブログを立ち上げたことを忘却の彼方へ押しやったからである。

 

というわけで症状が重いときはまるで出来ない読書を、にへらへらと楽しんでいたのである。

 

読んでいた本は凪良ゆうさんの「汝、星のごとく」であった。

私は凪良ゆうさんの本が好きである。ミーハーと言われようとも「流浪の月」は最高だった。

なんたって彼女の紡ぐ物語は美しい。それに現実に存在する問題とうまくストーリーを絡めることで、実際にこの世の何処かでそんな人生があったんじゃないかと思わせるぐらいの没入感がある。

だけど、だからこそ時々、本当に鋭く、”こちら“の心をも抉ってくるということを、私は忘れていた。

 

此処から先は作中のネタバレを大いに含んだりするので、誰も来ない辺境のブログとは言え、注意喚起をしておこう。

 

私が死にたくなったのはメイン人物の青埜櫂に深刻な胃がんが発覚し、ビジネスパートナーであり、心に傷を負い引きこもりになった久住尚人と井上暁海の成功を祝うシーンだ。

 

二人は仕事も失い、プライベートも深刻ではっきり言って病んでいる状態であった。

そこで描かれた描写はすべて、私のメンタルが最下層まで堕ちていたときに見た景色であった。

二人はお酒をこれでもかと飲み、馬鹿騒ぎをし、もはや叶わぬ夢の続きを語りだす。

 

 

「最高で最低の気持ちのままで終われたら幸せだ」

 

それは私が自殺を考えたときに思ったことだ。

 

「それで死んでももうええわ。俺は、今、最高やねや」

 

それは泣きながら大量の錠剤を胃に流し込み続けながら思ったことだった。

 

あの頃見ていた景色がそこにあった。苦しくて辛くてどうしようもなかったけど、一生懸命に生きてた自分がそこに見えた。見えてしまったから。

 

痛くて辛くて泣くしか出来なかったひどい日常だったけど、私の中で一番愛おしい記憶。

 

それを【思い出】にしてしまった、今のつまらない、生きる理由もないくせに、それに悩むこともなくなった。平凡でくだらない自分に成り上がっていた。

 

それに気づくと同時に激しい虚無が湧き出てきた。だけど私は平凡になった自分を捨てられない。もうあの頃のように刹那に生きられない。

 

この絶望があなたには理解できるだろうか。

 

もしも戻れたら、もう一度刹那に生きて刹那に死にたい。

卒煙結果

いや、タバコうめえわ

 

卒煙?無理無理。人生コレしかストレス解消されんわ。

だって世界ってクソだもん。

 

タバコは禁断症状を緩和する効果しかなく、タバコが作り出したマイナスを打ち消すだけっていうけど、絶対そんなことない。

最高の気分転換だわ。

なかったら多分何回か人殴っていると思う。

 

タバコこそがギリギリ私を人間として繋ぎ止めている最後の砦だ。

 

ストレスはアルコールとタバコの煙にしか溶けねえのだ。

 

みんなが卒煙決めても、私は永遠にタバコ学園に留年する。

 

タバコと薬とアルコール。メンゲラとは切っても切れねえものなのさ。

禁煙ではなく卒煙

私は歴6年のプロスモーカーである。

いや、であった。というのもついさっき、今さっき禁煙ならぬ卒煙を試み始めたのだ。

 

いままで幾度も禁煙ガムを噛み、電子タバコを充電し、禁煙パッチを貼りまくり『禁煙セラピー(アレン・カー著)』をボロボロになるまで読み込み、何度か惜しいところまで漕ぎつけたりもしながら、結果的にタバコを燃やし続けた。

 

なぜだろうと考えた時、私は別に禁煙などしたいとは思っていないという結論に行き着くのだ。

確かに燃やす分のお金は惜しい。お金が節約できるのはいいことだ。

だが、おおむね全ての禁煙グッズの主たる主張は

「辞めたら健康になれるよ!このままじゃ早死にしちゃう!」

なのだ。

私は不健康になりたい。どちらかというと一刻も早く問答無用で死にたいのだ。

だからこそ禁煙グッズの多くにみられる「長生きしたいだろ?」という勇気付けの言葉にげんなりするのだ。

 

では何故私は何度も失敗しながらタバコを断とうとするのか。

そこが明確でないから失敗するのではないかと思い立った。

だからこうしてツラツラ未練がましいことを書いているのだ。

 

第一にタバコを吸える場所が減った事。コンビニ前か自宅でしか吸えないとなると、割と日常が禁断症状との戦いになる。

これがだるい。

第二に今私は金欠で、値上がりの一途をたどるタバコ代金が本格的に厳しくなってきた。身もふたもない。

第三に、私の憧れる人が概ねタバコを吸わないという事だ。

 

昔の私の憧れた人はほぼほぼタバコを吸っていた。だから私もタバコを吸う事でその人たちに近づける気がした。

まあ、その人たちは概ね死んだ。みんな自死だった。

だからもう喫煙者の憧れの人はいない。だからもう、吸う理由がないのだ。

無くなってしまった。

 

この結論を出せなかったから、出すのが嫌だったから、私はタバコを吸っていたのかもしれない。

 

あとは数ある禁煙グッズが言うように、大したことのないニコチンの離脱症状を乗り越えれば、こんどこそ禁煙ならぬ卒煙ができるかもしれない。

 

辛いときに必ず傍にあった安酒とタバコの酷い味こそ、私の人生の味だと思うから、断つのはやっぱり難しいのかもしれないけれど、

もう吸う必要はない。その現実を、いい加減ちゃんと見ないといけないのかもしれない。

 

独学の難しさたるや

なんかこのブログ難しいばっか言ってんな。うける。

 

夢をかなえるゾウ ブラックガネーシャの教え

 

を読むと、そこには「うまくいっている人のやり方」を調べ真似る事が近道だという事が書かれていた。

確かに、一度だれかがうまいこといった方法なのだから当然効率もいいのだろう。

しかし大抵うまくいったヤツというのは頭がいいので、解説されても、ちょっと何言ってんのかわからない場合が多い気がする。

 

まずはそこを読解できる知識を得るべきなのだが、その場合Google先生にはなんと伺ったものか。

頭と要領の悪い人の第一歩は難関が多いなと思った次第である。

 

姿勢を正すことの難しさ

姿勢を正す。とても基本的で、人間が人間らしくあるための第一歩ともいえる。

しかしこれのなんと難しいことか。

 

一度意識すると、その難易度の高さに愕然とする。

足は震え、腹はつりそうになり、肩には無駄な力が入る。

 

ふと気が付くと背と肩が丸まり、足はだらしなく開く。

 

自分を律することの難しさが文字通り骨にしみる。

TODOリストって便利だね

いままで結構ナメていた。

わざわざ書かんでも、思いついたことは片っ端からやっていけばいいかと思っていたのだ。

しかし、なかなかどうして書き出すとスッキリするし、やろうと思ったことが確実に行える気持ちよさがある。

 

最近読み始めた、メンタリストDaiGoさんの自分をを操る超集中力にも、前頭葉の生み出すウィルパワーを節約するためには「思いついた雑事を紙に書きだし、頭の外に追いやる」作業は重要である旨が書かれていた。

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人は無意識になにかを気にしているだけで、エネルギーを使い、消耗していくらしい。

 

やらなくてはいけない事だけではなく、きっとひとは他に無意識で気にしていることがあるのだろう。

それをアウトプットし、頭の外に追いやれたらなら、生きるエネルギーもわいてくるのかもしれない。

 

なんて「今日のブログは何を書こう」という雑念を打ち消すべく、メンタリストの力を借りて記事を書いたが、これで今日の私はいつもより活力的になれるだろうか。